杏介は自分の部屋に戻った後、両親と1年以内に結婚すると約束してしまったことを考えていました。どうしよう・・・。杏介はモテないわけではないが、今まで自分を好きになってくれた人は、自分の好みの女性ではなかった。しかし自分が好きになった人は、自分のことを愛してはくれなかった。それでも若い頃は、何人かの女性とお付き合いをしたことはあったが、ここ4~5年は付き合う女性はいなくなっていた。最近は仕事に行く以外は、自宅に籠って小説を書いていることが多くなってきて、外出も少なくなっていた。
「明日は大学の講義のある日だったな。まあ焦ってもしょうがないか。」
ひとりそう言うと講義の準備を終えて、読書を始めました。杏介にしては珍しく推理小説ではなく、ツルゲーネフの『初恋』でした。この本は杏介が小学校の高学年で初めて読んだ小説でした。それまでは戯曲しか読まなかったのです。そしてこの本を読んだときに、初恋の甘く切ない思いに、強く惹かれたことは今も記憶に残っていました。なぜかこの本を読んでその思いに浸りたい気分でした。
次の日、大学の講義が終わって、自分の研究室に戻り講義の内容を記録していると、ノックがあり、同じ文学部の講師の石川千賀子先生が1冊の本を持って入ってきました。
「高岡先生、少しお時間ありますでしょうか。」
「はい。もう講義は終わったので、時間はありますよ。どうされたのですか。」
「実は折り入って、ご相談があるのですが、今度の純文学学会の研究の発表が、我が大学になったんですが、文学部の教授が私に研究論文を提出するようにと、話されているのですが、私、学会に研究論文を提出することに、自信がなくて・・・。高岡先生は作家でもいらっしゃるので、ご相談にのっていただけないかと思い・・・、ご迷惑でしょうが・・・。」
「ええ、私でできることなら、ご相談にのりますが、もう論文のテーマは決まっているのですか。」
「はい、教授からはツルゲーネフについて考えてみて欲しいって言われました。」
「ツルゲーネフですか。僕も『初恋』は何度も読みました。しかし難しいテーマですね。今度の土日にでも時間を作って、一緒に図書館でも行って考えましょうか。」
「ありがとうございます。あの、あつかましいお願いなんですが、もしよろしければ先生のご自宅に、お伺いしてはいけませんか。作家さんの家って興味があってダメでしょうか。」
「ああ、いいですよ。じゃあ次の土曜日に待っていますね。」
「ありがとうございます。」