松田響輝は日本の芸能界で大スターだったため、すぐに香港映画の業界から声がかかった。彼はしばらくは躊躇したが、元々演じることが好きな上、全く知らない人達の中で、一からスタートすることは、ある意味彼にとって幸せなことだった。名前を『シュリ』と変えて、香港映画で俳優として再出発をはじめた。
松田響輝は香港映画だけでなく、韓国、インド、タイなど、アジアで彼の需要は高まっていった。そしてついにハリウッド映画界からもオファーが来た。その映画でアカデミー賞の主演男優賞を獲得し、レッドカーペットを歩くことになりました。これで彼は国際俳優としての仲間入りをした。
松田響輝が海外で活躍する姿を、以前所属していた大手芸能事務所の人達や、日本の彼のファンたちも知っていた。彼の才能がいかにすごいものであるかを、今更ながら感じさせられた。
日本のメディアやSNSは、彼が日本でもう一度活躍してほしいとの声が、多くなって言った。しかし彼は日本に帰る気はなかった。いや帰れなかった。というのも彼は一度、映画の宣伝のため、日本に帰ってきた。その時、空港で多くの報道陣に囲まれ、フラッシュをたかれ、その中に入った時、彼はパニック状態になり、救急搬送されました。
彼はそんなことがあったので、それから二度と日本には帰って来ていないと、報道ではそう言われていたが、実際はパニック状態で救急搬送された後、日本に戻って息をひそめて暮らしていた。テレビなどのメディアを見ないで過ごしていた。そして仕事の時はそのたび、現地に出かけて行っていた。
彼の以前の芸能事務所は密かに彼を探していた。そのため、彼の両親には何度もたずねてきて、何度も交渉をしていた。しかし彼の両親は芸能事務所に対する不信感が強く、二度と日本の芸能界に戻す気はなかった。ただ高校は日本の高校に進学して、大学へと進んで、その後普通に親の会社の後継者になって欲しかった。
しかし彼の両親はの考えは甘かった。メディアやSNSは彼の状況を、すぐに晒されてしまった。日本で生活しているということで、容赦なく芸能事務所が押しかけて、無理やり契約させようとした。その時、彼は台所から包丁を取り出し、自分の胸を刺して死のうとしたのを、その場のみんなで何とか止めた。
しかし、彼は大声で訳の分からないことを叫び続けていたようだ。さすがの芸能事務所も驚き、一旦契約は諦めることになった。彼の海外での活躍は、その後も続いていた。そして現在に至っていた。契約には関係なく、日本での芸能活動は、すべて以前の芸能事務所を通さなければならなかった。
日本の芸能界はこの芸能事務所が自分の所属の芸能人だと、言いきっていたので、他の芸能事務所は何も口出しできなかった。そして現在に至っていました。
これが由美子の父の説明の全てでした。由美子はそれを聞いて、響輝の複雑な状況に最初に出会った、手首の傷から滴る血の一滴一滴が、心に蘇ってきた。(いつもクラスのみんなの前では、明るく振舞っているが、本当に辛いのだろうなあ)